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    カテゴリ: 歴史


    徳川 家康(とくがわ いえやす、旧字体:德川 家康)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・戦国大名・天下人。安祥松平家9代当主で徳川家徳川将軍家、御三家の始祖。旧称は松平 元康(まつだいら もとやす)。戦国時代に終止符を打ち、朝廷より征夷大将軍に任せられ、1603年、260年間続く江戸幕府を開いた。三英傑のひとりである。
    212キロバイト (34,954 語) - 2021年2月15日 (月) 13:57



    (出典 ddnavi.com)


    鳴くまで待てなかったのですね。

    1 ボラえもん ★ :2021/02/16(火) 15:22:15.79

     先日、映画『ブレイブ ―群青戦記―』のヒット祈願イベントが行われ、出演する渡邊圭祐さんが自身の性格をじっくり待つ徳川家康タイプと分析していた。
    実際に、家康は辛抱強い性格だったのか、考えることにしよう。

    ■天下人の性格
     織田信長、豊臣秀吉、徳川家康については、その性格を言い表した有名な狂句がある。次に示しておこう。

    織田信長「鳴かぬなら *てしまえ ホトトギス」

    豊臣秀吉「鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス」

    徳川家康「鳴かぬなら 鳴くまでまとう ホトトギス」

     信長は気性が激しく短気なので、鳴かないホトトギスを*と命じた。秀吉は知恵者なので、鳴かないホトトギスを鳴かせようと工夫した。
    家康は若い頃からの苦労人で辛抱強かったので、鳴かないホトトギスを鳴くまで待ったのである。それぞれの性格をあらわしていて興味深い。

     この3つの狂句は、第9代平戸藩主・松浦静山の随筆『甲子夜話(かっしやわ)』に書かれたものである。
    『甲子夜話』は文政4年(1821)から書かれ、静山が亡くなる天保12年(1841)に完成した。正編100巻、続編100巻、第3編78巻に及ぶ浩瀚な著作である。

     この3句は「詠み人知らず」となっており、いつ誰が詠んだのかは不明である。
    3人の天下人の性格が実際にこの狂句のとおりなのか不明であるが、江戸時代末期にはすでに定着していた可能性がある。
    では、なぜ家康は辛抱強い性格になってしまったのだろうか。もう少し考えてみよう。

    ■苦労人だった家康
     天文11年(1542)、徳川家康は松平広忠の嫡男として誕生した。
    松平氏は三河を領していたが、その威勢は弱体化しており、駿河今川氏に従属していた。幼かった家康は、今川氏の人質になっていたほどだ。

     永禄3年(1560)に今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれると、家康は信長の配下に加わった。
    天正10年(1582)に信長が本能寺の変で横*ると、家康は羽柴(豊臣)秀吉に従った。

     慶長3年(1598)に秀吉が病没し、その2年後の関ヶ原合戦で家康は西軍に勝利したが、
    家康の完全な天下取りは慶長20年(1615)の大坂夏の陣における豊臣氏の滅亡を待たねばならなかった。

     つまり、家康は信長と秀吉という2人の天下人に仕え、なかなかチャンスに恵まれず、辛抱強く待たねばならなかったということになろう。
    その事実が先の狂句に反映されたようだ。

     また、江戸時代には「織田が搗き 羽柴が捏ねし天下餅 座りしままに食うは徳川」なる狂歌も広まった。
    これは家康が辛抱強いというよりも、棚からぼた餅で天下を取ったことを揶揄したものである。

    ■有名な家康の遺訓
     ほかにも、家康が辛抱強いとされた根拠としては、以下に示す家康の有名な遺訓がある。

    人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし、いそぐべからず。不自由を常とおもへば不足なし、こころに望おこらば困窮したる時を思ひ出すべし。
    堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもへ。勝事ばかり知りて、まくる事をしらざれば、害其身にいたる。おのれを責て人をせむるな。及ばざるは過たるよりまされり。

     しかし、この家康の遺訓とされるものは、後世の偽作であると指摘されている。
    明治になって、幕臣の池田松之介が『人のいましめ』(伝徳川光圀作)をもとにして、創作したものにすぎない。家康の花押まで似せていたのだから、手の込んだ偽造である。

     この偽作を「幕末の三舟」の1人である高橋泥舟(ほかは勝海舟、山岡鉄舟)らが日光東照宮(栃木県日光市)をはじめ、各地の東照宮に奉納した。
    これにより爆発的に世間に広まったのだ。

     つまり、家康が辛抱強かったというのは、江戸時代に広まった伝承や偽作のようなものが根拠にすぎず、実際はどうだったのかよくわからないのである。
    家康が辛抱強い性格だったというのは、今後の検討を要しよう。
    https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon/20210216-00222815/


    (出典 www.hitachi-systems.com)


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    (出典 pbs.twimg.com)


    寂しいですね。

    1 みの ★ :2021/02/10(水) 07:46:35.41

     茨城県ひたちなか市で2002年に見つかり、翼竜の骨とされてきた化石が、太古のスッポンの骨だったことが、ミュージアムパーク茨城県自然博物館(同県坂東市)などの研究で分かった。化石は当時、翼竜の肩甲骨と鑑定され、「ヒタチナカリュウ」と命名されて新種の可能性にも言及されるなど話題になっていた。白亜紀のスッポンの化石では国内最大級と推定されている。

     化石は長さが約9センチ。ひたちなか市の平磯海岸の白亜紀後期(約7200万年前)の地層から小学校教諭が02年に発見した。ドイツの専門家にレプリカを送って調査を依頼したところ、「翼竜の肩甲骨」との回答を得て、同館に寄贈された。

     しかし、この地層からスッポンの化石が多数発掘されていることなどに着目した同館の加藤太一・副主任学芸員を中心とする研究チームが改めて調査した。

    …続きはソースで。
    https://mainichi.jp/articles/20210209/k00/00m/040/305000c
    2021年2月9日 20時34分


    (出典 nyjp07.com)


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    (出典 image.itmedia.co.jp)


    混乱しますね。

    1 鬼瓦権蔵 ★ :2021/01/30(土) 16:52:38.03

    全文
    https://news.yahoo.co.jp/articles/947365eef98e2ce4db3a56b88df58c3313b212b6

    前スレ
    https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1611985881/


    昭和・平成・令和と三つも元号が変われば、世の「常識」もガラリと変わり、気づけば浦島太郎状態に──。
    なかでも教育現場は、そんな「新常識」のオンパレードだ。
    たまには、子や孫の教科書をめくり、学校の話を聞いてみてはどうだろう。

    「はだ色のクレヨン、取ってちょうだい」

    東京都内在住の女性は、小学1年生の娘が学校で使うクレヨンに一本一本、「お名前シール」を貼っていた。すると、娘からは思わぬ言葉が返ってきた。

    「はだ色は、ないよ」

    不思議に思って「はだ色」を手に取ると、クレヨンに巻かれた紙には「うすだいだい」と印字があった。

    総合文具メーカーのサクラクレパスの広報担当者が説明する。
    「20年ほど前に、『多様な国籍の人が暮らす時代において、差別的だと感じる人もいる』との問題提起があり、業界全体で『はだ色』の名称は使わなくなりました」

    教育現場でも、国籍や男女の垣根は消えつつある。クラス名簿は、男女混合の50音順が主流に。「蒼」や「葵」で「あおい」と読む男の子の名前も一般的で、名簿で男女の区別はつかない。

    運動会も変わった。受験を控える小学6年や中学3年の保護者は、ケガで勉強に支障が出るのを嫌がる。
    「名物だった組み体操のピラミッドやタワーをやめる学校は、年々増えています」(都内小学校の女性教員)


    教科書も変わった。
    改めて読むと、昭和世代には驚くことばかりだ。

    その象徴的なものは、死後の呼称である「聖徳太子」から、「厩戸王(うまやとおう)」への変更だろう。

    10人の言葉を一度に聞き分け、十七条憲法を制定したり、巨大帝国だった隋を相手に“対等外交”を主導したりしたスーパーヒーローだ。

    『逆転した日本史』などの著書がある歴史研究家、河合敦氏が話す。
    「小中学校の教科書は、学習指導要領の関係から聖徳太子の名称とともにヒーローのままですが、近年の高校の教科書は、政治の主役は推古天皇で、厩戸王(聖徳太子)はその協力者に変わっていた」

    歴史上の人物の肖像画の「別人説」も次々に浮上している。

    旧1万円札の肖像でおなじみだった聖徳太子像。原画となった宮内庁所蔵の「唐本御影」肖像画もその一つだ。
    「高校の教科書から件(くだん)の肖像画は消え、中学の歴史教科書では、『聖徳太子と伝えられる肖像画』と、自信なさそうな表現に変わりました」(河合氏)

    国宝「伝源頼朝像」は、足利尊氏の弟、直義だとの研究もなされている。足利尊氏像と覚えた「騎馬武者像」も、別人だった疑いが強まった。

    かつては「士農工商」で教えられた江戸時代の身分制度の記載も、歴史教科書からなくなった。

    武士(士)・百姓(農)・職人(工)・商人(商)という固定的身分が存在するのではなく、武士が支配階級として君臨し、その下に百姓や職人、町人がゆるやかに並列して連なっていたイメージだったようだ。
    養子縁組で町人が武士になるなど、それなりの“自由”もあったという。

    江戸幕府の「鎖国」も、実際は長崎や対馬、薩摩を窓口にオランダや中国などと交易していたとされるから悩ましい。

    「誤解を生みやすい『鎖国』の用語について、文科省は改訂を試みましたが反対が強く、いまだに使われています」(同)

    機会があれば、子や孫の教科書をめくってみると、世相の変化や新たな発見に出会えそうだ。(本誌・永井貴子)

    ※週刊朝日  2021年2月5日号


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    お疲れ様でした。

    1 記憶たどり。 ★ :2020/12/20(日) 10:08:49.17

    https://news.yahoo.co.jp/articles/74048a1d57bb7d9833ff6930f002b8e6331bc01b

    「三丁目の夕日」や「ちびまる子ちゃん」でも描かれた昭和を代表する消毒薬「赤チン」の製造が終了する。
    国内唯一のメーカー三栄製薬(東京・世田谷)が24日製造、25日包装分をもって終了することを明かした。

    1939年(昭14)、日本薬局方(国が定めた医薬品の規格基準書)に収載された赤チンは、最盛期の60年代、
    全国約100社が製造。三栄製薬でも月10万本を出荷した。ヨードチンキ(ヨーチン)に比べ染みず、痛くないことから、
    保健室や家庭に欠かせず、擦り傷や切り傷ができた子どもたちの膝や肘は赤く染まっているのが定番だった。

    71年に無色でスプレーの「マキロン」が登場。一方、赤チンは原料のマーキュロクロムを製造する際、
    水銀が発生することから国内での原料製造が73年に終わり、徐々に時代に取り残され始めた。
    三栄製薬の藤森博昭社長(59)によると、海外から原料を調達して製造を続けるメーカーは2000年代に入ると
    3社になっていたという。

    15年に1社が倒産。18年末にもう1社は製造を終了し、三栄製薬だけになった。「水俣条約」(水銀を使用した製品の
    製造、輸出入を規制する国際条約)で12月31日以降、赤チンも蛍光灯などともに規制対象となることから、
    三栄製薬も幕を下ろす。「知っているのは昭和の人たちだけになりましたが、全国に根強いファンがいて
    『母親に塗ってもらった記憶がよみがえります』『大事に使っていきます』と手紙を送って下さいます。
    先代が最初に作った製品で70年近く作ってきたので作れなくなるのは寂しいし、残念です。
    長い間、お使いいただいてありがとうございました」と藤森社長は話している。

    ◆赤チン マーキュロクロム水溶液。「赤いヨードチンキ」の意味だが、ヨード(ヨウ素)もチンキ(エタノール)も入っていない。
    ライバルとなった「マキロン」は発売当初、子どもたちの間で「白チン」と呼ばれた。

    赤チンを手に思い出を語る藤森博昭三栄製薬社長
    https://news-pctr.c.yimg.jp/uUzvQ3lML_bkIqyakc1vFhcD1LjPo8yt_iUb5dR3d8r5m8rSD2r1Nf-NxZJIuHs6zv9RqFZ67UCOxhELtZhrdPDTwT85-FWPRnQyGFWgxWqL2SxGCcmRmMlLe7oWHFbXGovAyApro0LE-CRUarHBFAqy5Gmdrjrxgd1GJwJkhK0=


    (出典 image.itmedia.co.jp)


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    (出典 upload.wikimedia.org)


    良かったですね。

    1 爆笑ゴリラ ★ :2020/11/28(土) 18:46:12.35 ID:CAP_USER9.net BE:709795992-2BP(0)


    (出典 img.5ch.net)

    11/28(土) 18:22
    SmartFLASH

    門脇麦『麒麟がくる』熱演の裏で「私は身も心もフリーになりました!」
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     NHK大河ドラマ『麒麟がくる』で、明智光秀とともにもう一人の主人公ともいえるのが、門脇麦(28)演じる駒だ。門脇は実家が成城にあるお嬢様で、幼少時代からクラシックバレエに励んでいたという。

     そんな門脇の魅力をCMプランナーが語る。
    「彼女はスタイルもルックスも、抜群の美人というわけではない。ところが、噛めば噛むほど味が出るような女優になりました。“美人枠”で争おうとせず、今では珍しい昭和の匂いのする女優なので、各方面から需要があるんだと思います」

     門脇は撮影現場で、あるルーティンをおこなっているという。
    「それは呼吸法です。撮影前になると、彼女の楽屋から『すぅー』という大きなブレス音が漏れ聞こえてくるんです。その呼吸法はバレエ時代の経験から取り入れているもので、本人は精神集中に役立つと言っていました」(NHK関係者)

     別のNHK関係者が、彼女の律儀なエピソードを明かす。
    「彼女は撮影の際、誰よりも早くスタジオに現われ、自分の出番が終わってもほかの役者さんの収録が終わるまで見届けているんです。そして収録が終わったら、役者さんたち全員に『お疲れ様でした』と、ねぎらいの言葉をかけるのを日課としているそうです」

     一方で、撮影当初は大役ゆえか、不安が尽きなかったという。
    「撮影は朝早くから夜遅くまで続くのですが、門脇さんは『あまりよく眠れてない』と悩んでいるようでした。真面目な方なので、役について悩まれていたんだと思います。コロナの影響で撮影が一時休止され、それが再開されたときに『心配かけましたけど、今の私は身も心もフリーになりましたよ!』って、ずいぶんスッキリした顔になっていました。何か恋の悩みでもあったんですかね(笑)。

     それから急に距離が縮まった感じで、お互いの“恋バナ”で盛り上がることもありました。彼女の理想を聞いたら、『この世界(芸能界)とは関係ない、山歩きへ一緒に行ってくれる人がいいなぁ~』と、はにかみながら教えてくれました」(ヘアメイク担当者)


    (出典 amd-pctr.c.yimg.jp)
    ?w=640&h=640&q=90&exp=10800&pri=l

    https://news.yahoo.co.jp/articles/3e5bd06c3e252dc6f3fd2a480302ce38be7e5c72


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