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    カテゴリ: 歴史


    三国志の英雄・曹操、劉備、孫権は史実でも本当にすごかったのか(PHP Online 衆知(歴史街道)) - Yahoo!ニュース
    東京国立博物館の特別展で話題となっている「三国志」。現在発売中の月刊誌『歴史街道』9月号では、「三国志・男たちの五大決戦」と題し、官渡、赤壁、五丈原など5つの ...
    (出典:Yahoo!ニュース)



    (出典 www.kinokuniya.co.jp)


    頭が良いと、人の使い方も上手ですね。

    1 樽悶 ★ :2019/08/28(水) 18:47:24.53


    (出典 amd.c.yimg.jp)


    東京国立博物館の特別展で話題となっている「三国志」。現在発売中の月刊誌『歴史街道』9月号では、「三国志・男たちの五大決戦」と題し、官渡、赤壁、五丈原など5つの決戦を取り上げ、名将たちがいかに決断したかに迫っている。

    (前略)ここでは、三国志研究の第一人者である渡邉義浩氏による解説を紹介しよう。

    ※省略

    『演義』では悪玉とされる曹操ですが、史実においては、桁外れの行動力と変革力を発揮しており、規格外の「時代の変革者」と評せます。当代随一の兵法家でもあり、この時代における一番の天才といってもいいでしょう。

    彼が成そうとした最大の変革として、「儒教の相対化」が挙げられます。漢の国教とされた儒教は、漢を「聖漢」、すなわち「聖なる漢」との教えを説き、その体制を支えていました。

    しかし、そうした漢の体制が行き詰って、国が乱れているわけですから、曹操は新たな時代を創造するためには、儒教第一主義を否定しなければならないと考えました。

    その手始めとして、「唯才主義」による人材登用を主張します。それまでの漢の官僚登用は「孝廉」、つまり人として優れていれば、官僚としての才能も保証される、という儒教理念に基づいて行なわれてきました。

    それに対して曹操は、貪欲だったり、賄賂を受け取るような人物であっても、才能さえあればいいとしたのです。

    あわせて文学を宣揚し、儒教に通じているか否かではなく、文学に優れているか否かを人事基準として、儒教を相対化しようとしました。

    中国史上でも、儒教に異議申し立てをしたのは、ほかに近代以降の魯迅と毛沢東しかいません。曹操が果たそうとしたことは、それほどまでに革新的なことだったのです。

    余談ですが、それによって儒教は打撃を受け、それまで普及していなかった仏教が後に広まる契機となります。それがなければ、日本への仏教渡来もどうなったかわからず、その意味で曹操は日本史にも影響を与えているのです。

    それから曹操は、漢の土地制度と税制を根本から変える改革も行なっており、「中国史上屈指の改革者」と評して過言ではありません。

    三国志の時代は、順当に行けば、袁紹による国家ができたことでしょう。名門の家系に生まれただけでなく、戦い方も王道です。彼は、漢と同じ国家像を志向しています。しかし滅びゆく漢と同じことをしても、無理があります。

    そうした袁紹に対し、曹操は漢に代わる新たな国家像を提示できた。だからこそ、勝利を収められたのではないでしょうか。

    なお、10年ほど前、中国河南省で西高穴二号墓が発掘され、曹操の墓ではないかと話題となったことは、記憶に新しいのではないでしょうか。発掘状況と文献を精査すると、曹操の墓で確実だといえます。

    ■劉備は諸葛亮に利用された

    ※省略

    三国志の時代に、裸一貫から皇帝にまで上り詰めたのは、劉備ただ一人です。曹操は漢の高官の息子ですし、孫権も弱小とはいえ豪族の出身。何もないところから成り上がった劉備の能力は、やはり極めて高かったといえます。

    劉備を支えた諸葛亮は、『演義』では天才軍師として描かれます。しかし、持ち上げられすぎているきらいがあり、それがために苦手という人もいるでしょう。

    実際の諸葛亮は、自分の得手不得手をよくわきまえた人物で、経済政策を苦手としていました。ですから例えば、劉備に嫌われていながらも、経済手腕には長じていた劉巴を、何とか高い地位につけようとしています。

    戦いの面で言えば、戦略と戦術に分けられますが、諸葛亮は戦術が苦手でした。戦術は騙し合いの世界なので、どちらかというと、人格者ではないほうが優れている。その点、諸葛亮はまっとうな人間であり、嘘や騙し合いの必要な戦術は、さほど得意ではなかったと思われます。

    しかし、戦略には優れていました。よく「天下三分の計」といいますが、それ自体は、あの時代であれば考え得ることでしょう。むしろ特筆すべきは、劉備という存在に目をつけたことにあります。

    諸葛亮は、漢を敬慕し、純粋に「漢再興」を目指していました。ですから、劉備に三顧の礼を受けた時、内心狂喜したのではないでしょうか。

    諸葛亮は、劉備が漢帝室の姓を持つことと、彼が優れた武人であることに注目し、漢再興の旗頭として位置づけることを考え出した──。(続きはソース)

    8/27(火) 12:14配信
    https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190827-00010000-php_r-pol

    ★1:2019/08/27(火) 23:45:46.81
    https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1566975106/


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    内陸にマグロ!?遺跡から骨出土 南陽、縄文草創期に海岸部と交流の可能性 - 47NEWS
    約1万1千~1万2千年前の縄文時代草創期の竪穴住居跡が確認された南陽市赤湯の北町遺跡で、内陸部の縄文遺跡としては全国的に珍しいマグロの骨が出土した。
    (出典:47NEWS)



    (出典 lowch.com)


    ぜひ解明してほしいです。

    1 樽悶 ★ :2019/08/10(土) 19:02:09.42

    マグロの骨が出土した北町遺跡で、2年目の発掘調査が始まった=南陽市赤湯

    (出典 www.yamagata-np.jp)

    出土したマグロの骨(長井謙治愛知学院大准教授提供)

    (出典 www.yamagata-np.jp)


     約1万1千~1万2千年前の縄文時代草創期の竪穴住居跡が確認された南陽市赤湯の北町遺跡で、内陸部の縄文遺跡としては全国的に珍しいマグロの骨が出土した。当時から内陸部と海岸部で人的、物的交流があったことが推察され、愛知学院大の長井謙治准教授(先史考古学)らが8日から、現地で2年目の発掘調査を始めている。

     白竜湖西側に位置する同遺跡は、枯れた植物が分解せずに積もった泥炭層の湿原だった場所に広がる。市教育委員会は2015年、東北芸術工科大(山形市)の考古学研究室に勤務していた長井准教授と一緒に湖周辺の泥炭を探す作業に着手し、17年に探し当てた。

     最初の本調査は、昨年8月9~25日に実施した。地下約4.7メートルまでの範囲に計17の地層を発見し、10層(地下約4メートル)の竪穴住居跡から約2センチ大のマグロの骨と哺乳動物の骨などを見つけた。東海大の丸山真史講師(動物考古学、海洋考古学)が鑑定したところ、成長段階のマグロの背骨の一部と判明した。長井准教授は、昨年の調査を「これだけの内陸部で海洋魚の骨が見つかったこと自体、驚いた」と振り返る。

     一連の調査結果は、今年5月に東京で開かれた日本考古学協会総会で発表した。今年の調査は22日までの予定で、同大と東北芸工大の学生、市教委社会教育課の担当者計約20人と作業に当たる。竪穴住居の確認や人が住んでいた地層の確定などを目的としており、長井准教授は「最古のマグロの骨に加えて、土偶なども確認できれば面白い研究になる」と話している。

    山形新聞 2019年08月10日 11:01
    https://www.yamagata-np.jp/news/201908/10/kj_2019081000184.php


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    エジプト最新ミステリー 発見された黒い棺の人物 - nikkei BPnet
    エジプトで密閉された黒い石棺が発見され、インターネットで話題となっている。しかし、棺に納められているのはいったい誰だろう?
    (出典:nikkei BPnet)



    (出典 livedoor.blogimg.jp)


    誰のお墓なんでしょうか。

    1 ガーディス ★ :2019/07/14(日) 15:47:19.65

    サが作られたのは今から2千年ほど前のプトレマイオス朝(紀元前4世紀から1世紀)のものと見られている。棺が今まで開けられてはいないことは、棺の蓋の下の層が一切触られた形跡がないことから明白。棺は墓荒らしの盗賊の犠牲になることが多いことから、今回の発見は非常に珍しいものと話題を呼んでいる。

    https://jp.sputniknews.com/science/201807145113316/

    (出典 cdn1.img.jp.sputniknews.com)


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    先祖は武士か庶民か?名前で判断できる「戸籍読取」の基礎知識(幻冬舎ゴールドオンライン) - Yahoo!ニュース
    今回は、戸籍を読み解く上で押さえておきたい基礎知識について見ていきます。※本連載.
    (出典:Yahoo!ニュース)



    (出典 ggo.ismcdn.jp)


    難しいかと・・・(^^;)

    1 樽悶 ★ :2019/06/02(日) 19:39:12.40

    [図表3]明治5年の身分

    (出典 amd.c.yimg.jp)

    [図表4]明治5年の職業

    (出典 amd.c.yimg.jp)


    ※省略

    ■「住んでいた地」と「名前」からわかる先祖の身分

    ◆名前から武士かどうかわかる⁉

    先祖が武士かどうかの見極めに大事なことは、二つ。「住んでいた地」と「名前」です。

    先祖が住んだ地は、武士がいた城下町だったのか? 武士と庶民が半々で住んでいたのか? 農村か? 漁村か? その地の藩は? を調べます。

    次に、名前です。江戸時代には、武士の名前、神主の名前、お坊さんの名前などがおおよそ分かれていました。現代では時代錯誤も甚だしい話ですが、当時は庶民が武士っぽい名前を付けることができませんでした。

    経験から来る感覚で判断する部分もあるので、やや難しいですが、例えば、必殺仕事人の中村主水。主に水と書いて「もんど」と読ませるような名前。これは武士としか思えません。また、北島三郎の木こりの与作のような「よさく」という名前。これはちょっと武士っぽくありません。

    ただし名前だけで、必ずしもわかるわけではありません。もう一段階深く話すと、武士は実名(じつめい)と通称(つうしょう)という二つの名前を持っていました。実名は、諱(いみな)ともいい、殿様の前などフォーマルな場で使う名前。通称は、普段使う名前。実名はいかにも武士っぽい雰囲気の2文字の名前。通称は、庶民とさほど変わらない名前です。例を出します。

    ・織田信長(おだ のぶなが)の通称は三郎(さぶろう)、実名は信長

    ・坂本龍馬(さかもと りょうま)の通称は龍馬、実名は直柔(なおなり)

    明治に入って戸籍ができたとき、武士は通称と実名のどちらかを選んで登録しました。実名登録なら武士とわかりやすいですが、通称登録だと、名前だけでは確定しにくくなります。

    ◆先祖が武士であった場合の調査方法

    江戸時代(1603~1867)は、全国に300以上あった藩では、藩士の名簿を作っていました。それを「分限帳(ぶん(ぶ)げんちょう)」といいます。「武鑑(ぶかん)」「士族明細帳」「禄高帳(ろくだかちょう)」などもありますが、内容はほぼ同じで、藩士の氏名・役職・禄高(年俸)などが記載されています。なかには、居住地や作製時期の藩士の年齢・家紋などが記されているものもありました。現在の住宅地図のような、城下町の屋敷地図が残されていることもあります。

    このような史料の多くは、地元の図書館や公文書館・博物館などに現在でも保管されていることが多く、丹念(たんねん)に調べることによって、その家の先祖がどのような身分の武士であったかが、より具体的に判明すると思われます。

    また、武士である先祖は、仕えていた藩に、家系図や親類書(武士が、家族・親類の氏名や仕官先、本人との続柄などを書いた文書)を提出している可能性があります。それらの多くは、筆字で書かれた古文書ではありますが、先祖が書いた家系図類を発見し、活字化することによって、江戸時代初期か、あるいはそれ以前の先祖のことまでが詳細にわかる可能性があります。

    いずれにしても、先祖がかつて仕えていた藩の史料は、当家の家系を調べるうえで、貴重な情報源となります。

    ●明治5年の人口統計(身分別・職業別)

    江戸時代は正確な人口統計が調査されていませんが、明治維新直後の1872(明治5)年の身分別人口によれば、農民・職人・商人・町人などの平民(庶民)が約3083万人、旧幕臣や藩士などの士族(武士、卒族といわれた足軽などの下級武士を含む)が約194万人、皇族・神主・僧侶が2666人いました(※諸説あり)。

    これを比率にすると、平民が93%で、士族(武士)が約6%、その他の皇族・神主・僧侶が約1%です。また、1873(明治6)年の職業別統計では、人口のおよそ79%が農業、6.6%が商業、3.5%が職人とあり、その他は雑業と分類されました。(続きはソース)

    6/2(日) 10:00配信
    https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190602-00020763-gonline-bus_all


    【【身分】先祖は武士か庶民か?名前で判断!!!!!!!!!!!】の続きを読む


    令和とインパール作戦と石田三成 - WEDGE Infinity
    信じられてきている伝統は実はそう古くない昔に人為的に作られたものであり、歴史のイメージを様々に問い直す必要がある。今回のキーワードは、令和とインパール作戦と ...
    (出典:WEDGE Infinity)



    (出典 upload.wikimedia.org)


    えっ???????

    1 樽悶 ★ :2019/05/19(日) 19:02:02.09


    (出典 wedge.ismedia.jp)


    ※省略

     日本の太平洋戦争での敗戦の原因、特にインパール作戦のような兵站を軽視した戦いが実行された背景には、石田三成の存在があるのではないか……。

     こんなふうに書くと三成の子孫やファンに怒られるかもしれないが、この家人の出来事のあと、歴史上のイメージで真っ先に思い出したのがこの“太平洋戦争三成責任論”だった。

    ※省略

     三成について『戦国武将合戦辞典』(吉川弘文館)は、「武将ではあるが、その本領は軍事よりもむしろ吏務に長じ、五奉行中随一の実力者として政務の処理にあたり、内政面での功績が大きかった」としている。

     その一方で三成につきまとうイメージは戦下手。映画にもなった『のぼうの城』(和田竜、小学館)で三成は、水攻めなどを用いて忍城を攻めるも、結局落とすことができず、まさに戦闘では役に立たないような武将として描かれている。

     さらに三成のイメージを悪くしている一つに、文禄・慶長の役(秀吉による朝鮮侵略)での軋轢だ。奉行として渡海するなどした三成だったが、前線で戦うことはなく、その役目は食糧の輸送や戦闘状況をチェックしての秀吉への報告だった。報告の中には三成が処分を求めて実際に処罰されてしまった武将もいたものだから、加藤清正や黒田長政ら前線指揮官の武人派からは「ちくり」だと怒りを買ってしまう。

    ※省略

     ではなぜ、三成が太平洋戦争の敗戦に影響しているのかというと、またしても『戦国武将合戦辞典」の記述を拝借したい。戦闘能力が高かったとの記述はないが、「戦陣に臨んでも兵站関係や占領地の処理にその手腕を発揮した』とある。

    ■文禄・慶長の役でも兵糧が滞ることはなかった

     兵站とは、戦闘地帯の後方にあって食糧や軍需品の供給・補給などにあたる活動のことだ。いくら屈強な兵士を集めても腹が減っては力も出ない。どんなに武器の扱いに熟練していても、肝心の銃や戦闘機がなければ最新鋭のアメリカ軍には太刀打ちできない。

     三成はこうした兵站、つまりロジに長けていたというのだ。実際に、当時は前代未聞とされた20万以上もの軍勢を動員した九州攻めで兵站の役割をこなし、海を渡った文禄・慶長の役でも兵糧が滞ることはなかったとされる。

    ■「餓島」とも呼ばれたガダルカナル島

     太平洋戦争では多くの日本軍兵士や軍属が太平洋の島々などで餓死したとされる。その事例として挙げられるのが、インパール作戦や、「餓島」とも呼ばれたガダルカナル島での戦いだ。太平洋戦争全体の全餓死者数の公式記録はないものの、ある研究では200万人を超える軍人軍属の戦没者のうち、餓死・戦病死者は140万人にも上るという推察もあるぐらいだ。

     この三成と鋭く対立したことで知られる加藤清正は、日清戦争や日露戦争で清正を祀る神社や寺で戦勝祈願が行われるなど「軍神清正」としてあがめられることになったという。清正は朝鮮での虎退治や餓死寸前にまで追い込まれながら起死回生の勝利をあげた蔚山城の戦いなどの武功もあり、猛将と描かれることが多い(実際には熊本城築城や治水など行政手腕にも優れていたのだが……)。

     まさか、「清正のように食糧がなくても気力で勝てる」と昭和の日本軍が宣伝したことはないだろうが、現在でも陰湿なキャラ設定が多い文治派武将と比べて、清正のような猛将型武将は豪放磊落とどこかいいイメージで描かれることがしばしばだ。

     関ヶ原の戦いを契機として、戦争では勇ましさが好まれ、逆に三成のような兵站の重要性は省みられなくなったのではないだろうか。豊臣政権の五奉行のうち三成を含む三人が敗者となり、五奉行ではないが三成と同様に輸送や兵站で優れ、西軍の主力を構成した大谷吉継や小西行長も三成と運命を共にしたことも、兵站軽視思想に拍車をかけたのかもしれない。

     小西行長を描いた『鉄の首枷』(中公文庫)の中で遠藤周作は、「主計(会計)将校の孤独」という章をわざわざ設けて、「輜重(武器、兵糧などの軍需物資)部隊の指揮官であることが前線将校の侮蔑を受ける」と記している。

     これは、明治維新以降、軍隊が近代化してからも、陸軍士官学校、海軍兵学校など前線指揮官ことこそが花形であり、遠藤は「主計将校を幼年学校や陸士出将校たちがむしろ軽侮の眼で見たのは日本陸軍の伝統」として兵站を扱う人材は脇役であり続けたことと重ね合わせている。(続きはソース)

    2019年5月19日
    http://wedge.ismedia.jp/articles/-/16169

    ★1:2019/05/19(日) 17:01:28.01
    https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1558252888/


    【【検証】太平洋戦争での敗戦の原因の背景に、石田三成の存在!!!!!!!!!!】の続きを読む

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